10月25日小早川秀秋公菩提寺「瑞雲寺」参拝のウォーキング | セラピスト・ラプソディー♪ ~真の健康をめざして~

10月25日小早川秀秋公菩提寺「瑞雲寺」参拝のウォーキング

10月25日火曜日のウォーキングは番町2丁目の「瑞雲寺」を参拝。
その後に伊勢神社〜ベネッセ本社横〜岡山商大付属高校〜西口筋を帰ってきました。
5km=60分です。



瑞雲寺は「金吾中納言小早川秀秋公」の菩提寺です。
(金吾は唐風の官職名で、水戸光圀=黄門、源頼朝=武衛、源実朝=羽林などがある)



後世の伝記物、時代小説などで「裏切り者」との汚名を着せられてしまった悲劇の武将。

3歳で後継者候補として豊臣秀吉の養子となり、秀吉に実子秀頼が誕生・成長と共に冷遇され始め、先に養子となり第2代関白となった秀次(秀吉実姉の子)が粛清・一族斬首。

そんな経緯の末に関ヶ原合戦。
徳川家康にも恩義がある中で、
叔母北政所おね、実父(おねの兄)木下家定や実兄木下利房らは中立。

新たな養子先の小早川家の宗家毛利輝元にしても名目上の西軍総大将に過ぎず、毛利三家の吉川広家は東軍に近く。
小早川家内も養子秀秋に反目する者が多々。

19歳の青年藩主の心持ちはどうであったのか?
(10代前半で飲酒過多だったらしいが)

山号は黄門山、中納言の唐風通称「黄門」に因むものか。






「瑞雲院殿前黄門秀厳日詮大居士」

昭和52年10月18日第三百七十五回忌の碑


「違い鎌」は小早川秀秋の旗印




いずれにしても岡山移封2年、21歳で病没。
早世の悲運の藩主ですが、岡山に名残が多々あります。

実父実兄の足守藩木下家は幕末まで続きます。