三穂太郎満佐(美作菅氏) | セラピスト・ラプソディー♪ ~真の健康をめざして~

三穂太郎満佐(美作菅氏)

三穂太郎満佐(1182年〜1234年)は本姓では菅原満佐といい菅原朝臣道真公13世孫とされています。


さんぶたろう巨人伝説(那岐山の頂上に腰を降ろして瀬戸内海で足を洗い、京の都まで3歩で行った。母親は大蛇であるなど)のモデルになったと言われています。

ダイダラボッチ、神子・獣子伝説などミックスされたような伝説です。


天神さま菅原道真から数代後の知頼が美作守となり任国に下るが在任中勝田郡で死去。

その子真兼が押領使となり以後土着して美作菅氏の祖となる。

知頼→真兼→尚忠→仲頼と続き、仲頼の三男が「太郎満佐(みつすけ)」です。


三男なのに太郎と称するのは、母親が2人の男子を連れての再婚であったために父仲頼にとって初めての実子だからとされています。


満佐は武家として中世(鎌倉時代から室町時代)に美作地方で活躍した「美作菅家党」の基礎を築きました。


満佐の7人の子らが菅家七流と呼ばれる「有元・廣戸・福光・植月・原田・鷹取・江見」と名乗り有元氏を頭領とし「美作菅家党」と称する武士団が形成されました。


その他の派生した132氏を包括して「美作菅氏」とされており、有元氏を惣領家として中世の豪族集団となります。


この美作菅氏から派生した氏族には加賀前田家、柳生家、宇喜多氏の重臣戸川家などもあります。


美作菅氏の宗家であり美作菅家党の頭領と言える家系がいつから有元を氏としたのかも諸説あるようですが、「菅原満佐=有元満佐=三穂太郎満佐」は文武勇に優れ統率者として秀でた人物であったようです。


しかし、1234年に満佐は作用郡で赤松久範と戦い討ち死にし、五体をバラバラにされます。


頭部(こうべ)は奈義町関本の三穂神社(みほ神社、通称こうべ様)、胴体(あら)は奈義町西原の杉神社(通称あらせき様)、足は奈義町成松の諾神社(なぎ神社)、腕肩(かいな)は智頭町土師の河野神社(通称にゃくいち様)、右手(うて)は美作市右手の三社大明神(うて大明神)にそれぞれ祀られています。※足・右手には異説あり


強い者、怨みを持つ者などは神として祀るのが古の習わしで、地元では神として、あるいは異能の巨人として伝説となったのかもしれません。


※(菅原氏と美作の繋がりや菅家七流、美作菅家党の形成過程には各家の伝承の違いにより諸説あるようです。

有力家による主導権争いや離合集散があったため、系統の書き換え等があったのではないかと思います。

ここでは有元家家伝を元にしています)


美作菅氏は支流まで通字として「佐」を、家紋は梅鉢紋を使用する場合が多かったようです。


さて、満佐の父仲頼の母と浄土宗の開祖法然上人の母は実の姉妹です。

すなわち満佐の父仲頼と法然上人は従兄弟となります。


法然上人の生家は漆間(うるま)氏と言います。

後年、満佐から6代後の有元佐常が漆間氏の一族に養子入りし、家督を継いだ後に家名を「菅納」と改姓します。


菅納氏は漆間氏系豪族として立脚し、菅家党と行動を共にしたわけでは無いようですが、江戸時代になると有元家などと同様に庄屋・豪農として家系が続きます。


明治期になり久米郡福渡村下神目の菅納本家の医師・地方議員である菅納實(みのる)氏からは家名を「菅」(かん)としたようです。


實氏の長男が寿雄(ひさお)氏、寿雄氏の長男が第94代内閣総理大臣菅直人氏となります。